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「ふむ、ふむ」
「うん」
房一は何もかも忘れていた。日頃の思案深げな額の皺はいつそう強く刻まれていたが、それは却つて或る夢中な輝きを示していた。彼は何ものかに捕へられていた。何かが胸の奥深くでよびさまされているやうであつた。首筋に焼けつく日の暑さ、水流のきらめきや、絶えず水に濡れて黒く光つている沈み岩の頭、滲み出る汗と共に何かしら揉まれしぼり出される身内の或る物――それらは彼の幼時の記憶に確しつかりと結びついて、その頃の漠とした幸福感を近々と思ひ出させた。
それは莫迦げたことにちがひなかつた。だが、その莫迦げた習慣の中に今房一は身を以て入りつゝあるのを感じた。
と気のない返事をした。
「まだ、まだ」
一息に話してしまふと、喜作は依然としてさつきのまゝの姿勢で、いかにも気持よささうに、あのごつごつした、年に似合はず毛のうすい頭をむき出しに日にさらし乍ら、遠く河下の方に開けた空と、その下に低く横はつている丘陵地に目を放つていた。
「や、さあお上り下さい。さあ――」
不幸なことに房一の予測はあたつた。いや、それ以下とも云へた。
そんな風におぼえていてくれるとは思ひがけなかつた。
「何にしても、えらいこつてしたなあ」
「一つ着て見せたらどうです?高間さんにはきつと似合ひますよ」
「なにぶん山の中でございますから、折々にこんなことがございます。」